Vol.1 地主神社の神職に聞く 音羽山に残る古代信仰の謎

大昔、音羽山は湖に浮かぶ小島だった!


地主神社鳥居の下で。左が今回お話を伺った中川権宮司。



縄文時代の遺物といわれる「恋占いの石」。二つの石はほぼ東西に配置されています。

今回のよだん堂は、清水寺にとっておそらく最も近くに位置し、最も長いご縁をもつ地主神社がテーマです。権宮司を務められている中川勇さんからはこの地にまつわる古代信仰の跡や、あまり知られていないエピソードなど、興味深いお話をたくさん伺いました。
学術的な調査研究は専門の先生にお任せするとして、しばしの間、謎とロマンに満ちた歴史の世界へご案内いたしましょう。

お参りに来られると、"清水寺の本堂を出てから地主神社の鳥居をくぐり、お社へ向かう"という参拝ルートに「変わってるな」と感じたり、「なぜお寺の中に神社が?」と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。
当山本堂の北側、崖の斜面の上部が地主神社の境内になるわけですが、建物が、下から清水寺本堂→地主神社拝殿→地主神社本殿と、一線上に並んでいます。この配置は、明治以前まで仏様と神様の区別なく信仰していた日本独特の信仰の形「神仏習合」の象徴であり、さらに、まだ日本という国の概念が生まれる以前にまでさかのぼる古代信仰の聖地の名残なのだそうです。

中川さんは、さまざまな遺物や文献、地元に残る伝承などから、この音羽山は、京都盆地が湖だった大昔から不老長寿の霊山蓬莱山と呼ばれ、島のような陸地となっており、祭祀を行う聖なる場所だったのではないかとおっしゃっています。

「地主神社の境内の「恋占いの石」は科学的調査の結果、縄文時代のものと判明しています。そしてこの2つの石の配置は、ほぼ東西のライン上に並んでいます。古代日本の自然信仰では東西はとても大切な方角であったことから、何らかの意味をもっていたのだと思うのです。環状列石の一部、斎場の目印の石だったかもしれません。そして本堂、拝殿、本殿はほぼ南北に一直線に並んでいます。南北、特に北を重要とする考え方は仏教とともに大陸からもたらされたものです。東西と南北、この2つのラインから考えると、この地は、まさに日本と中国の古代信仰が交差する重要な場所だったといえるのではないでしょうか。」

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