Vol.1 観音さまの時間で臨み、人の時間で今日を成す ―東山の環境危機と未来―(2015.1218)

「適地適木」のルール、年月、信念をかけた現代の森作り


江戸時代中ごろに描かれた東山と都の景色。「花洛一覧図」(部分)国立国会図書館蔵


京都タワーから東山を臨む。山の中腹に清水寺が立ちます。


楼門の滝。かつて、この付近に如意寺の山門があったといわれています。


高田先生たちによって斜面に植えられた苗木。シカに食べられないよう、厳重に囲ってあります。

昔話に、薪拾いや柴刈りといった言葉があるように、人間は山から燃料や建材となる木を採取してきました。人口の増加にともなって採取量は増し、江戸時代には、日本各地にはげ山が出現するほどの過剰な採取が行われました。しかし京都では、他の都市とは異なり、山の自然環境が保たれていたといわれています。これは京の山が寺社の持ち山だったところが多く、埋葬地もあったことから、都の人々が「人の生死と深く結びつく宗教の場」として山を神聖視してきたことが理由です。薪や柴、炭の採取も盛んでしたが、むやみに荒らさないよう、また、山の森林資源がいつまでも続けて利用できるよう循環的な管理が行われ、そのおかげで、多くの絵画や、庭園の借景に見られるような美しい山の姿は保たれてきました。

しかし明治に入ると寺社の所有する山は多くが国有地となり、以降、政府の管理のもとに厳しい禁伐と積極的な植林が進み、林業が盛んになると、京都の里山は成長の早いスギやヒノキを植える「木材の畑」へと変貌していきました。そして時代が進むにつれて石油や安価な輸入木材が台頭したために、植えた樹木は不要となり、植林地の多くは手入れをされることがなくなっていったのです。

高田先生は、「マツ枯れ、ナラ枯れ、シカの食害といった、現在、我々が抱える問題は、人間が、自分たちの都合で山に手を加え、その影響が自生していた樹木や、そこに行きる動物、昆虫といった山全体の環境にまで及んだ結果。」といい、「山の荒廃は、近代になって開発された植林地の放置が大きな原因。このまま放っておけば、あちこちで山は崩れ、景観が悪くなるどころか災害に繋がる。」と、強い危機感をもって、行政の環境担当者や環境保護の団体を対象に、山の環境改善の指導に当たっておられます。
そしてまた、「効率や利益が優先される現代にあっても、日本人の根底には、万物に神仏が宿るという信仰が流れ続けている。"○○のおかげ"と自然に感謝をしたり、先祖に手を合わせたり、目に見えないものに価値を見出すことができる。だからこそ我々は目先の成果にとらわれることなく、長い時間をかけても、再びあるべき山の姿に戻すことができる。」という信念をもって、自ら現場に向かい、間伐や植栽の指揮を取っておられます。

当山は、京都の山の景観保護を目的に立ち上げられた団体「京都伝統文化の森推進協議会」を通して高田先生とご縁を結び、その指導のもと、清水山をはじめ東山の各所で行われている森林整備活動に参加。光を遮り、他の樹木の生育を妨げるシイの間伐や、土壌や日照、地形など環境にあった樹木を植える「適地適木」の考えに則り、イロハモミジやウリ、アカシデ、ウラジロ、トネリコといった、場所に適した苗木の植栽を行っています。
「植栽は50年先、100年先の姿を想像しながら行っている。これらの木が大きく生長したとき、自分はこの世にはいないけれども、結果は空の上から見る。」という高田先生の言葉は、大変印象に残りました。

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