Vol.1 地主神社の神職に聞く 音羽山に残る古代信仰の謎

神仏が望まれた不滅の「祈りの場」


連日、大賑わいをみせる境内。中川さんによれば「ご利益をわかりやすい言葉で説明した最初の神社で、これが若い方にお越しいただけるようになった理由です。パワースポットブームもあり、お参りに来られる方の層が広がってきているようにも思います。」


主祭神である大国主命の像がお出迎え。人気の記念撮影スポットにもなっています。

明治になって、政府から神仏分離令が出されるまでは、日本古来の八百万の神々と大陸伝来の仏様、神様を融合させ、ともに敬い拝んだ日本独特の信仰「神仏習合」がポピュラーでした。清水寺と地主神社の建物の配置は、この「神仏習合」思想がとりわけ顕著に表れた形だといわれています。そして、明治政府によって神様と仏様がふたつに切り離された時も、多くの仏教寺院が打ち壊されている中で、清水寺は生き残ることができました。その危機と再興については、よだん堂Vol.13でご紹介しているとおりですが、地主神社もまた、近年、存亡の危機から劇的な復活をとげられました。その時のエピソードをご紹介しましょう。

現在、地主神社を守っておられる中川さんご一族は、代々、祇園の京都ゑびす神社の神職のお家で、地主神社が神主不在となったため入られることになったのだそうです。お話を伺った中川勇さんのお祖父さまの代までが兼任で、お父さまの代(4代目)から専任で宮司を務めておられます。

「第二次世界大戦後、神道が国からの保護から外れたことにより、神社は、自分自身で信者を集めなさいと放り出されたわけです。仏像など目に見える信仰の対象がない神道は、一般の方に理解いただけない時期があったのではないでしょうか。昭和30年~40年代ごろ、参拝者も増えどんどん勢いを盛り返していく清水寺に対して、地主神社は荒廃していました。父からの話では、社殿は御扉を閉めてもどこからか日が射すほど荒廃し、御屋根を直すお金もない状態だったそうです。しかし神職も氏子も、誰もがダメだと思っていた時代にあきらめなかったのは、何かこの地に、このお社に感じるものがあったのでしょう。社殿を重要文化財として保存するべく文部大臣に手紙を書き続け、一年かかって請願が通り、昭和41(1966)年6月に本殿と拝殿、総門が国の重要文化財に指定されました。これをきっかけにして地主神社は復活し、修理や整備を続けながら、徐々に現在の姿になっていきました。」

「存亡の危機は?と問われると、なにしろ創建は神代と伝わる地主神社ですから、戦乱や災害、もっと大きな天変地異など、数えきれないほどあったと思います。神主からの立場で言うと、この長い歴史の中で生き残ってこられたことは、やはり神のお力によるものと信じています。この場所、この形が現代まで残り続けてきたのは、〝神様がこう望まれたのだ"と。」
「現在、たくさんの方がお参りに来られて、きっと神様はよろこんでおられるはずです。それは観音様も同じではないでしょうか。」

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